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冬休み

何年ぶりでしょうか。
今年の冬休みは、ずっと家族で過ごしました。
と言うのも、クリスマスが終わってからの短い休暇は、
わたしひとりが帰省をさせてもらって、両親とゆったりまったりと贅沢に過ごさせてもらっていました。
まさに骨やすめ。
でも、今年は種々の事情から、家族3人と1ぴき、車で仲良く帰省しました。
例年の静かな年の暮れとは違って、
大笑いのにぎやかな時となりました。

いつものように実家では、父と一緒にスーパーに買い物に行ったり、お散歩を毎日のようにしました。
母とは、雑貨や洋服のショッピングを楽しみました。
これでもか、というくらい、たくさんおしゃべりをしました。

雪の舞う午後でしたが、父と息子と3人で散歩をした時のことです。
毎日一万歩歩くことを目標としている父にリードされながら、
なつかしい、こどものころよく遊んだ公園や、今はないスーパーなんかを
息子に説明しながら、坂道を下っていきました。
そして、弟が通っていた幼稚園に近づいていきました。
「ここ、キリスト教保育だったんだよね。」
「そうよ、日曜日はここで礼拝があったよ。」
「へーーー。知らなかった・・・」
その幼稚園がキリスト教の幼稚園だということは、もちろん知っていました。
弟がクリスマスのページェントで、博士役をしたのもよく覚えています。
でも当時、弟が聖書からどんな良い影響を受けていたのか、
キリスト保育として、どんな教育を受けていたのか、
わたしも幼かったからなのか、わたしの家族自体がクリスチャンホームだからなのか、
全然、意識していませんでした。
そして、もしかしたら、幼稚園教育というのは、違いを感じ取りにくいものなのかも・・・・
と、初めて気づかされたのでした。

『たかが幼稚園』
わたしは、時々思い起こします。
幼児期にどのような公教育を受けたとしても、
一番大切なのは、やはり『家庭』です。
『家庭』で愛され、基本的なことを身に着けていけば、
幼稚園の違いは、それほど問題ないと思うのです。
でも、『されど幼稚園』
幼稚園で、ひとりひとりが愛され、互いに愛し合い赦しあうことを経験できるならば、
『家庭』では気づかないかもしれない、その人の良いところや偏っているところに気づいてあげられ、
広い視野をもった教育を受けることができます。
だからこそわたしは、ひとりひとりを大切に愛することと、
専門家としての知識や経験が発揮されるのでなければ、
幼稚園教育の意義はなくなってしまう、と思っています。

さて、振り返って、善隣のキリスト教教育は、
こどもたちや保護者の皆さんに、どれだけ意識されているのでしょうか・・・・
わたしが、どんなにがんばってひとりひとりを愛そうとしても、
限界は目に見えています。
それどころか、こどもたちを見ていると、わたしの中にもある自己中心な態度や、
人を憎む気持ちなど、目を背けたくなるような姿ばかりが目について、
絶望的な気持ちになってしまうのです。
それを正していくことが幼稚園教育なのであれば、
わたしには無理です。
でも、わたしたちが中心としている聖書には、
『義人はいない』(正しい人はいない)とあります。
「わたしは、罪人です。」と、告白するところから始まるのです。
そして、「ごめんなさい。でも、わたしは神さまに赦されているのだから、わたしもあなたを赦します。」
と、互いに赦しあえるところに、平和が宿る、と教えるのがキリスト教教育です。
善隣は、このキリスト教教育に立つ教会幼稚園だから、わたしは園長になることを受け入れました。
善隣に集うこどもたちやご家族が、キリスト教教育を通して、
なくてはならないものを得られることを 心から願っています。


さて、明日新学期の準備を先生たちと始めます。
冬休みにそれぞれが『家庭』で味わった幸せを活力にして、
『家庭』から送られてくるこどもたちと、楽しい日々を作っていきたいと思います。

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[ 2014/01/06 21:44 ] わたし | TB(-) | CM(-)