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『あなたがわたしの右の手を取ってくださるので・・・』

小さな小さな手を優しい手が包んで、
この門をくぐって来られる入園式は間近。
その優しい大好きなお母さんの手を離し、
今度は、わたしの手を握ってくれるかしら・・・・・・?

卒園式の日、修了証書を渡して握り合ったこどもたちの手の大きかったこと。
幼稚園の3年間の重みを感じました。
みんな堂々とうれしそうにほほ笑んでいたのですが、
彼らを見守るお母さん方や先生たちは、なみだ顔。
その重みの記憶が、心に溢れてきたからでしょう。

こどもたちの手を ある時はしっかりと握って引っ張り、
ある時は優しく握り合い、ある時は振りほどこうとしたり・・・・
いろんな毎日を繰り返してこられたお母さん。
でも、そんな同じではない毎日を お母さんが繰り返してくれたからこそ、
こどもたちの幼稚園での楽しい毎日があったのです。
そして、こどもたち同士もまた、しっかりとつなぎ合う手と手に支えられて、
楽しい幼稚園での生活を作ることができました。

堂々と正面に立つひまわりさんを見送るために
卒園式に参加したさくらさんは、当たり前のように隣の友達と手をつないでいました。
立ち上がって歌を歌う時も、ぎゅっと手を取り合っていました。
まるで、お母さんに手をつないでもらっているかのように、
お互いの手をしっかりと、優しく取り合っていたのです。
だいじょうぶ。いっしょにいるよ。・・・・・
そんな風に伝え合っていたのでしょうか。


卒園式と入園式の間の3週間。
わたしは仕上げと準備で落ち着かず、幼稚園から離れることはできないのですが、
こころは少しでも開放されなければ・・・・と、自分なりに遊んでみたり。
頭の上に桜の花も開き始めて、ホッとしたりドキドキしたり。
園長の小さなこころは複雑なのです。

そして、今朝、聖書の詩篇を読んでいて励まされました。
 
  『あなたがわたしの右の手を取ってくださるので 常にわたしは御もとにとどまることができる。』(詩編72:23)

『あなた』というのは、わたしたちを創って下さったかみさまのことです。
手を取って、わたしをどこに連れて行ってくださるのですか?
と、かみさまに期待と信頼をもって歩んできたつもりでしたが、
かみさまのおそばにとどまることこそが、どこにいても最善の選択にちがいないのです。

等々力での17年目の春がやってきました。
とどまり続けることの困難をひしひしと感じさせられる歩みでした。
でも、そこにある祝福をもう一度思い起こし、深く深く感謝をし、
わたしの手を取って、御もとにとどまらせてくださるかみさまの御業を語り続けたいと思います。





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[ 2015/03/28 10:58 ] わたし | TB(-) | CM(-)

起承転結

実はわたし、9月から本を執筆しています。
夜はほぼ毎日、パソコンに向かってきました。
その内容の素は、2010年から綴ってきたこの園長ブログです。
拙いわたしの文章でも、子育てのお役に立つことができれば・・・・・
他の幼稚園さんの励ましになれば・・・・・
そして、幼稚園の先生になろうとしている若い人たちに、
こどものすばらしさや幼稚園のおもしろさを伝えたい・・・・
と、一念発起して始めました。

最初は、ブログを選んでちょっと手を加えればいいんだろう、なんて甘く考えていましたが、
担当者の方のアドバイスを受けて書き進める内に、大変なことを始めてしまった・・・・・
と、少し後悔しました。
というのも、ブログはこの善隣を知っておられる方が、わたしの話の場面を想像しながら、
何となく共感してもらえればいい・・・・・
ぐらいの軽い気持ちで綴っていけたのですが、
『本』となると、もっと多くの読者に手に取ってもらい、理解してもらわなければなりませんし、
責任も伴うものになります。
ですから、伝えたいことを一方的に書けば良いのではなくて、
相手に伝わるように書かなければならないわけです。
そこで、選んだブログを通して、わたしは結局何を伝えたいのかをじっくり掘り下げ、
わかりやすく記す努力をしてきました。

こうして2か月ちょっとかかって、ようやく第一稿にこぎつけたわけです。
「本当に本になるんだ・・・」
執筆の大変さにくじけそうになっていただけに、ほっとすると共に、
せっかくいただいたチャンスですから、この本が多くの方のお役に立つことを願っています。
そして、構成を考えるにあたって、
『起承転結』という基本を思い出しました。
まず、「えっ?!何それ、おもしろそう!」と、興味をもってもらうことから始まり、(起)
次に、その気持ちを引き継げる内容が続き、(承)
それを受けて、「はっ!」とさせるようなアプローチに広げ、(転)
最後に納得のいく結論に落ち着きます。(結)
この仕組みにはまるように全体の構成を整えて、読みやすいものにしたいと思っています。

さて、幼稚園の2学期もいよいよ後半に差し掛かり、
ここのところ、年中のお母さん方との立ち話の中で、
幼稚園生活が、とても早く進んでいってしまうことへの寂しさが話題に登りました。
だんだんと、年長になる時が近づいている今、
我が子が最高学年の年長になった時のイメージが持てなくて不安も感じておられるようでした。

幼稚園でのこどもたちの生活は『起承転結』にあてはめられると思います。
入園前の、いつもお母さんと一緒の生活が一変、ひとりで社会に踏み混んでいく入園に始まり、(起)
一日一日の体験が、大切な積み重ねとして続きます。(承)
その後、いろいろな展開がその都度あるわけですが、
大きな流れとしては、年長に上がることが幼稚園生活の転だと思います。
その日々は、自分づくりと、仲間づくりのための大きな転機となります。
そして、みんなで毎日を綴りながら泣いても笑っても最後の日が訪れるのです。(結)
こうしてこどもたちは、大きく成長していきます。

こどもたち25人分の全ストーリーをたっぷり読み通したいと思います。
読み応えのある、ひとりひとりの違ったストーリーを。
願わくば、場面場面で伝えようとしている本当の意味を、正確に読み取っていきたいと思います。
[ 2014/11/26 20:31 ] わたし | TB(-) | CM(-)

毎日少しずつ

今年の夏は、いつもより長く等々力に留まっています。
園舎の耐震改修工事をしているので、目が離せないのです。
工事の計画は、とても綿密に立てられていて、ひとたび工事が始まれば、
職人さんたちにお任せするしかない、と思っていました。
でも、実際は予定通りにいかないことも多いらしく、
見ていても、「あれ?そういうこと?だいじょうぶかなあ・・・???」
と、素人だけに不安をかんじることも出てきました。
それで、できるだけここにいて見守ろう、文句を言おう、と思ったのです。
「そりゃそうだと思うよ。ここは君の庭だから。」と、主人。
こんなにここにこだわりを持つのも、わたしならではなのでしょうね。
責任者の木村さんもよーくその辺を理解してくださっていて、
納得のいくまで話し合いながら、工程を進めてくださっています。

なるほど、工事を仕切るのもなかなか大変だな、と木村さんを見ながら感心させられています。
決められた日程の中で手順を調整し、専門の違う職人さんを手配するのはもちろんですが、
想定外のできごとが必ず起こるので、そこでまたこまめに調整し直しておられるのでした。
そして、その隙間を埋めるのが木村さん自身の手なのでした。
そうやって、毎日少しずつ少しずつ工事は進んでいて、
園舎は前よりも良い建物に生まれ変わっていっています。

さて、わたしはこうして幼稚園の様子を見守りながら、
園庭のサルスベリの花が毎日少しずつ開いていくのを楽しみに眺めているのですが、
いつもの年は、この花が咲き始めた頃に帰省して、帰ってくると見事に満開になっていたので、
華やかなピンクの花は、一斉に開くものだと思っていました。
でも、今年観察していると、この花は一つひとつの枝の先に小さなつぼみがふくらみ、
つぎにゆっくりゆっくり、順番に花が開いていくことがわかりました。
毎日少しずつ少しずつなのでした。
だから、明日はどうなるのかなあ・・・という期待感を味わえるのでした。
途中を見ていないと、全然気がつかないことでした。
そしてそれは、こどもたちの成長が結果よりもプロセスが大切なことと同じなのでした。
「丈夫な建物になりました」「今年もサルスベリが咲きました」
「それはようございました」・・・・・・
結果だけを見ればそれでいいのですが、そこに至るまでのプロセスの中にこそ、
何のためにそうするのか、という話し合いと、それに伴う期待と決断と努力、
そして、達成できた時の喜びがあります。
順調な時も課題がある時も、一緒に過程をたどってきたからこそ得られる成長の実感だと思います。

夏休みの終わる頃には、何事もなかったかのようにきれいに整っているだろう園舎の陰に、
職人さんたちの汗と技と心が隠されていることを それを目の当たりにしたわたしは、
こどもたちに伝えていきたいと思います。
[ 2014/08/07 15:02 ] わたし | TB(-) | CM(-)

主役のいない園庭

少し涼しい夕方。
子ねこのみどりと一緒に庭に出ました。
心地いい風を頬に感じながら、砂場の横に腰を下ろすと、せみの鳴き声が降ってきました。
チチチ・・・と、ことりの声も混じっていました。
でも、静かなんです。
いつものこどもたちの笑い声やごそごそと砂を掘る音が聞こえてこないから。
そういえば、見上げた青桐の大木もいつもより小さく感じられました。
いつもその根元にしゃがんでどろだんごを磨いていたり、ありをつついているこどもたちの姿が無いから。

いつもの園庭の主役がいないと、なんとこの庭は小さく、ありきたりの場所に見えることでしょうか。
ここでこどもたちは、好きなことを見つけ、必死であそび、友達とおもしろさを追求しながら、
いつの間にかたくさんのものがたりを紡いでいきます。
途中で友達とけんかして、ものがたりは中断したかに見えることもありますが、
実は成長のものがたりは、常に紡ぎ続けられているのです。
こどもたち同士の生活がここにある限り、ひとつひとつ違うすばらしい成長のものがたりが展開されるのです。
こどもに寄り添うということは、このすばらしいものがたりを一緒に味わいながら、
こちらの心まで成長させてもらえることだと思います。
だから、お母さんは我が子に寄り添いながら、楽しいことも、うれしいことも、悲しいことも、腹が立つことも
一緒に味わっているうちに、必ず成長させてもらえるのだと思います。
そんな幸せなお母さんとこどもにたくさん会ってきました。

夏休み、こどもに寄り添わなくてはいけない、寄り添わなくてはいけない・・・・と思えば思うほど、
寛容になれない自分に益々熱くなってしまうこともあるかもしれませんね。
そこで、どうでしょう、我が子のものがたりの主役は我が子、と割り切っては。
お母さんは、鑑賞させてもらおうっと!
いいのよ、何でもやってごらん。あなたはおもしろい子よ。必ず成長できるからね。
お母さんも一緒に成長させてね。・・・・・・
そんな風におとなな振る舞いをしてみては。

主役のいない寂しい園庭で、普段、どれほどこどもたちから成長の機会をあたえてもらっているのかを
深く感じさせられたひと時でした。
[ 2014/07/29 22:59 ] わたし | TB(-) | CM(-)

新しい緑が美しい季節がやってきました。
そのまぶしさに目を細めながらいつも思い出すのは、
陣痛の痛みに堪えながら、座席に横たわって病院に急ぐ車の窓から見上げた若葉です。
人生初の最大の痛みの中で、そのキラキラとした緑の輝きが、
心の中に溢れる希望を表していました。

輝く緑は、わたしたちに希望を感じさせてくれます。
今、善隣の庭は、希望であふれています。
さくらの枝には柔らかいはっぱが揺れ、
ついこの間まで、太鼓のバチのような形だった青桐のはっぱは、
日に日に手を広げるように大きくなっています。
丸太のようになってしまっていたサルスベリにも、ようやく小さな緑が覗き始めました。
そして、大きく傾いて立っているニセアカシアは、一番の見ごろ。
白い、藤の花のような形の花が、何とも言えない良い香りを漂わせています。
今年の花は特にすばらしい!と思っていましたが、
よく考えてみると、毎年そういっているような気がします。

この間、樹木医の方がこの傾いた大木をみてくださいました。
門を押し上げるために切られた根っこ。
それで、その年の台風で木は建物の方に傾いてしまったのでした。
傾いた面はこどもたちの絶好の木登りのあそび場となって、
善隣のシンボルになっています。
じーっとこの木を診てくださっていた樹木医さんは、
木登りをしている、と聞いてちょっと驚いておられましたが、
「木もがんばっているんですよ。わたしはそう思います。」と、おっしゃいました。
こどもたちが元気に遊び、わたしたちもそれを願って、一生懸命にこの場所で励んできた、
その横に、このようないのちも寄り添ってくれていたことが一気にうれしくなって、
涙がこみ上げてきました。
かみさまが創ってくださったいのちは、すべて無駄なものは無く、
つながっているいることを確信しました。

さて、始まったばかりの善隣の新学期。
かみさまの創ってくださった尊いいのちが出会いを繰り返しています。
ひとりが「おもしろい」、と思ったことを誰かも「おもしろい」、と思ったり、思わなかったり・・・
いろんな反応が起きています。
それによって、つながりが生まれていきます。
[ 2014/05/03 12:48 ] わたし | TB(-) | CM(-)

冬休み

何年ぶりでしょうか。
今年の冬休みは、ずっと家族で過ごしました。
と言うのも、クリスマスが終わってからの短い休暇は、
わたしひとりが帰省をさせてもらって、両親とゆったりまったりと贅沢に過ごさせてもらっていました。
まさに骨やすめ。
でも、今年は種々の事情から、家族3人と1ぴき、車で仲良く帰省しました。
例年の静かな年の暮れとは違って、
大笑いのにぎやかな時となりました。

いつものように実家では、父と一緒にスーパーに買い物に行ったり、お散歩を毎日のようにしました。
母とは、雑貨や洋服のショッピングを楽しみました。
これでもか、というくらい、たくさんおしゃべりをしました。

雪の舞う午後でしたが、父と息子と3人で散歩をした時のことです。
毎日一万歩歩くことを目標としている父にリードされながら、
なつかしい、こどものころよく遊んだ公園や、今はないスーパーなんかを
息子に説明しながら、坂道を下っていきました。
そして、弟が通っていた幼稚園に近づいていきました。
「ここ、キリスト教保育だったんだよね。」
「そうよ、日曜日はここで礼拝があったよ。」
「へーーー。知らなかった・・・」
その幼稚園がキリスト教の幼稚園だということは、もちろん知っていました。
弟がクリスマスのページェントで、博士役をしたのもよく覚えています。
でも当時、弟が聖書からどんな良い影響を受けていたのか、
キリスト保育として、どんな教育を受けていたのか、
わたしも幼かったからなのか、わたしの家族自体がクリスチャンホームだからなのか、
全然、意識していませんでした。
そして、もしかしたら、幼稚園教育というのは、違いを感じ取りにくいものなのかも・・・・
と、初めて気づかされたのでした。

『たかが幼稚園』
わたしは、時々思い起こします。
幼児期にどのような公教育を受けたとしても、
一番大切なのは、やはり『家庭』です。
『家庭』で愛され、基本的なことを身に着けていけば、
幼稚園の違いは、それほど問題ないと思うのです。
でも、『されど幼稚園』
幼稚園で、ひとりひとりが愛され、互いに愛し合い赦しあうことを経験できるならば、
『家庭』では気づかないかもしれない、その人の良いところや偏っているところに気づいてあげられ、
広い視野をもった教育を受けることができます。
だからこそわたしは、ひとりひとりを大切に愛することと、
専門家としての知識や経験が発揮されるのでなければ、
幼稚園教育の意義はなくなってしまう、と思っています。

さて、振り返って、善隣のキリスト教教育は、
こどもたちや保護者の皆さんに、どれだけ意識されているのでしょうか・・・・
わたしが、どんなにがんばってひとりひとりを愛そうとしても、
限界は目に見えています。
それどころか、こどもたちを見ていると、わたしの中にもある自己中心な態度や、
人を憎む気持ちなど、目を背けたくなるような姿ばかりが目について、
絶望的な気持ちになってしまうのです。
それを正していくことが幼稚園教育なのであれば、
わたしには無理です。
でも、わたしたちが中心としている聖書には、
『義人はいない』(正しい人はいない)とあります。
「わたしは、罪人です。」と、告白するところから始まるのです。
そして、「ごめんなさい。でも、わたしは神さまに赦されているのだから、わたしもあなたを赦します。」
と、互いに赦しあえるところに、平和が宿る、と教えるのがキリスト教教育です。
善隣は、このキリスト教教育に立つ教会幼稚園だから、わたしは園長になることを受け入れました。
善隣に集うこどもたちやご家族が、キリスト教教育を通して、
なくてはならないものを得られることを 心から願っています。


さて、明日新学期の準備を先生たちと始めます。
冬休みにそれぞれが『家庭』で味わった幸せを活力にして、
『家庭』から送られてくるこどもたちと、楽しい日々を作っていきたいと思います。

[ 2014/01/06 21:44 ] わたし | TB(-) | CM(-)

変わることと変わらないこと

幼稚園のインターホンが鳴って出てみると、
そこにはどこかで見た顔が。
「直子先生、わかりますか?」「えっとー・・・」
それは、高校2年生になった卒園生の女の子でした。
年中で転園し、しばらく離れていましたが、
数年前に近くに戻って来ていたとのこと。
少し勇気を出して、なつかしい善隣を尋ねてくれたのでした。
おもしろくて、活発だったあの頃の彼女と、
目の前に立っている、美しくて利発な彼女が重なって、
本当にうれしい再会となりました。

室内を案内して、職員室で先生たちとお茶をしました。
「先生のお部屋に入れるなんて・・・!
 わたしがけがをした時、藤本先生がすごく心配して、
 ベッドに寝かせてくれたんです。」
卒園生の話は、こどもの目から見た幼稚園ですから、
とても新鮮でした。
「幼稚園が変わってなくてよかったあ。
 でも、一番変わってなかったのは直子先生だった。」
今度は、母と来ます、そう言って元気に帰っていきました。

彼女が園を去って11年。
わたしも順調に年を重ねているのですが、
「直子先生、変わってなーい。」と言ってもらうと、やっぱりうれしい!
でも、実は大きく変わったのです。
保育のことを何も知らなかった当時。
目の前で巻き起こるこどもとおとなのドラマに、
なぜ?どうして?わたしならどうする?と、
ノートに書き連ねながら、一生懸命に考え、学びました。
失敗をたくさんしました。
こどものおもしろさに魅かれていきました。
そして、わたしが善隣で保育をさせてもらうことを召命と、感じるに至ったのです。
ですから、わたしは大きく変わったのです。

それから、善隣の保育も大きく変わったはずです。
園長が変わったのですから。
わたしの成長とともに、善隣も成長し続けているのです。


さて、高校2年生の卒園生との再会の数日前、
わたしは、お二人そろって卒園生と、おっしゃる老夫婦にお会いしました。
ひさしぶりの等々力を散策されていた途中に、
なつかしい善隣の前を通りかかられ、掲示板を見ておられたので、
わたしは、お孫さんのために関心をもっておられるのかな、と思って
声をかけたのでした。
「変わってないわ。・・・うれしい。・・・」
でも、当時の園舎は木造で、見た目は変わっているはずなのです。
ただ、園庭と、そこに植わっている昔は小さかった木々の雰囲気は、
変わっていなかったことでしょう。
そして、何よりも、同じ場所にあり続けることが、
変わらないことなのだ、と思わされました。


週末、小学校の運動会を卒園生を応援するために回りました。4つも!
卒園したばかりの1年生とじゃれあっていると、
「直子先生・・・」と、ぼそっと声をかけてきた中2の男子。
「直子先生!!!」と、抱きつかんばかりの勢いで声をかけてくれた高1の女子。
こちらからは、あの小さかったあの子だとは気がつかないくらい成長していました。
「もう知ってる先生は、直子先生だけだあ。」
「園長になったんだよ。」
「ふーん。」
「いつでも遊びにきてね!」
「いくいくいくいく!」
あーー、ずっといてよかった。
こどもたちの成長をこうやって目にすることができるのも、
変わらずに居続けることができたからです。
自分自身が少しずつ変えられたからこそ、居続けることができたからだと思います。

かみさまのご計画の中で、変わるべきことと変わらないことが、
人と人との関わりを広げ、豊かにします。
[ 2013/05/26 23:03 ] わたし | TB(-) | CM(-)

計画

冬休みの計画は、実家でゆっくり、が定番です。
なつかしい広島の空気を胸いっぱい吸って、
食べなれたおいしい食事をお腹いっぱい食べて、
はちきれんばかりにエネルギーを補給して、3学期に備えます。
この冬は、家族がどのように動くか、二転三転しましたが、
ほぼ計画通り、広島に帰ることができました。
でも、そこで両親と経験したのは、
思いもかけなかった出来事でした。

新年2日目にわたしたちは、鈍行電車に乗って、瀬戸内を旅しました。
行き先は、『忠海』。
母が、小学校高学年から中学2年生くらいまでを過ごした、思い出の地でした。
話だけで、行く機会のなかったこの地に、父は是非行ってみたいと言いました。
わたしも、幼い頃を過ごした『広』を通る呉線に乗れるとあって、大賛成で出かけました。

瀬戸内海を眺めながら、ゆっくりと2時間半。
到着した『忠海』は静かで、海からの風だけがビュービュー吹いていました。
なにしろ、1月2日ですから、お店もレストランも開いていなくて、
ファミマでおにぎりとお茶を買い、駅のベンチで3人で肩を寄せ合ってお昼を取りました。
こんな時、たいてい父はわたしたちを守るように、
自分は立ったまま風除けになってくれます。
小さい頃から、そんな風にしてもらってたなあ・・・と思い出しながら、
大急ぎでおにぎりをほお張りました。

寒さは堪えましたが、心の中は、先ほど見た風景に満たされていました。
それは、母が65年くらい前に毎日のように通っていた幼稚園の園舎と園庭でした。
当時、母の弟が通っていた聖愛幼稚園でもたれていた日曜学校に
母は、熱心に通っていて、中学生になると、先生になって、
こどもたちに聖書を教えていたそうです。
日曜学校の先生達の横に立つ14歳の母。
そして、同じようなおかっぱ頭の女の子たちと
坊主頭の男の子たちが50人くらい。
その写真を撮ったホールの屋根の上に立つ鐘の塔は、そのまんまでした。
古い門の前には、新しい掲示板が立てられていて、
今も地域のこどもたちのために活動されていることがわかりました。

65年前に蒔かれた種は、母の心のなかで育ち、
やがて、父と一緒になって私が生まれ、
わたしの中にもその種は引き継がれ育っていき、
今、こうして善隣幼稚園に繋がっているのでした!!
なんというかみさまのご計画でしょうか!!
わたしの善隣との出会いは、わたしだけのものではなく、
長い時間をかけた多くの人たちの祈りによって育まれた出会いの先にあったのでした。
それを思うたびに、感動と感謝で胸がいっぱいになります。
そして、今、わたしたちが善隣で祈りをもって蒔き続けている種も
かみさまのご計画のもとに、最善の形に成長していくことに確信と喜びを持ちました。


さて、新学期が始まりました。
短い3ヶ月の中にたくさんの計画が詰まっています。
計画、計画、と追いかけて、走り抜けることのないようにしたいと思います。
一時一時立ち止まりながら、背後にあるかみさまのすばらしい計画がなるのを
見届けながら、祈りつつ、こどもたちと一緒に歩んでいきたいと思います。




[ 2013/01/13 21:43 ] わたし | TB(-) | CM(-)

一年の終わりに

幼稚園がお休みに入ると、わたしは『専業主婦』の気分を楽しみます。

こどもの時から、いつも母が家にいてくれるのがうれしかったことを覚えています。
たまに、夕方が近づいても何かの用事で母が不在だと、
火が消えたような、すきま風が吹き込んでくるような寂しさを感じたことをよく覚えています。
ですから、わたしも絶対『専業主婦』になる、と決めていました。
もともと、わたしが好きだったのは、ケーキを焼くこと、パッチワーク、トールペイント、
ピアノを弾くこと、歌を歌うことなど、インドア系。
そして、お家を自分なりにきれいにして、好きな雑貨なんかを飾って、お友達を
のんびりいつでも招きたい人なのでした。
もちろん、大好きなだんなさまとむすことの一緒の時間を
何よりも大切にしたい、と思っていました。
そうなると、不器用なわたしは、『専業主婦』でなければならなかったのです。

では、どうやって今の仕事と両立したのかと言うと、
一度には無理、と気づいたことによると思います。
自分がやりたいと思っていたこととは違うことが突きつけられ、
しかも、それはとても苦手なことだけれど、とても大切なことと気づかされていく中で、
自分が好きだったものは、まず、手放していきました。
序序に幼稚園に身を置く時間が長くなり、
園の責任を負って、フルタイムで働くことになったのは、
むすこが4年生の時でした。
慣れない担任をしながらの副園長で、
自分の至らなさに毎日、隠れて涙していました。
そして、家では、グダグダになりながら、「もーう、やめたい!」
と、むすこに愚痴ったこともあります。
その時の、彼の言葉がいつもわたしを前に押し出してくれているのです。
「でもすきなんでしょう?」 「・・・・・・うん・・・・・」
情けない母は、4年生のむすこに教えられました。
わたしは、こどものことが好き、教育が好きなのだと。
そして、彼の優しさに慰められました。

お家でまったりの時間はなくなりました。
むすこや主人との時間は減ってしまいました。
それは、良いことではありません。
でも、必ずそれらを手にできる時もやってくることを楽しみにしながら、
励むことができるようになってきたのだと思います。


さて、12月のあわただしさの中で、
わたしの体は、なかなか本調子に戻らないのですが、
それでも、お約束の親友とのランチに行ったり、
家族でクリスマスのお買い物を楽しんだり、
両手に軍手をはめて、床をふきまくっては、ニヤニヤしています。
そして、念願の、お客さんとのまったりしたお茶も楽しみました。
丁度1年前に転勤でお別れをしたゆうきくんが、
ご家族で遊びに来てくれたのです。
お茶をしたり、お庭で以前のようにかいぞくごっこをしたりして遊びました。
昨日は、在園児の親子も遊びに来てくれました。
それから、やはり1年前に転勤したりさちゃんも、アメリカから、
「クリスマスは善隣でしたい」と言って、顔を見せてくれました。

こんな風に、心の中に覚えてもらえることは、本当にうれしいことです。
毎日、ただひたすらこどもたちのために、
最善を尽くすことしかできない、わたしたちの働きですが、
いつか思いもかけない形で、楽しい時間が訪れることをわくわくしながら、
その瞬間瞬間も楽しんでいきたいと思います。

今年もブログを読んでくださり、ありがとうございました。
来年もよろしくお願いします。


[ 2012/12/29 18:49 ] わたし | TB(-) | CM(-)

ちひろ美術館にて

下石神井のちひろ美術館に行ってきました。
ちょっと遠いけど、おすすめです。
絵本を読めるスペースや、ねっころがったり、おもちゃで遊べるお部屋もあるので、
こどもと一緒に訪れるのもいいでしょう。
でも、本当は、こんな所で、お母さんにひとり静かに、
自分の時間を持って欲しいな、と思います。

ご存知、いわさきちひろさんの絵は、こどもが多く描かれていますよね。
ほっぺのふくらみやほつれた髪の毛、小さな肩やぷくっとした指。
どこを取ってもかわいらしいこどもそのものを描いていて、
見飽きることがありません。
でも、一番こどもらしいな、と思うところは、口が笑っていないところだと思います。
イラストにすると、ついつい、ニーっと笑顔にしてしまうこどもの顔ですが、
一生懸命遊んだり、考えたりしている時、こどもの表情には力が入るのか、
口は、キュッとつむっていることが多いように思います。
それで、日頃から思うのは、
時々、「どうだった?」と、おとなが感想を聞くと、
「たのしかった。」と、こどもは答えるようにしているようですが、
わたしは、正直、がっかりするのです。
その一言では表せないような驚きや感動を本当は、味わっているはずなのに。
いや、味わわせてあげるべきなのに、と思うから。

ちひろさんの表現する、複雑に、でも美しく混ざり合った色の重なりのように、
こどもの心の中は、複雑で美しく、
説明するよりも、心と心で感じ合う方が確かな気がします。

さて、そんなちひろさんの絵に囲まれて、
わたしの感性も、少しは研ぎ澄まされていったのですが、
すると、あまりにお行儀の良いこどもたちの動きや服装に、
窮屈な感じを覚えるようになってきました。
こどもは、もっと汚いぞー、もっと大胆だぞー、と思いながら鑑賞していました。
でも、ちひろさんがこう書いていらっしゃいます。
 「ドロンコになって遊んでいる子どもの姿が描けなければ、ほんとうにリアルな絵では
  ないかもしれない。その点、私の描く子どもは、いつも、夢のようなあまさが、
  ただようのです。
  実際、私には、どんなにどろだらけの子どもでも、ボロをまとっている子どもでも、
  夢をもった美しい子どもに、みえてしまうのです。」1963年

ちひろさんは、ご自分のお子さんを けっして叱らない、
「うしおのように流れ出す愛情」で育てられたようです。
ご自分では、
「この育て方では、教育学者からは、ぜったいにあきれかえられる。
 また、この教育絵本の主旨にも反する。」1958年
と、書いておられますが、現代の教育学者からは、評価されると思います。


暑い暑い日差しの中を 日傘片手に訪ねたちひろ美術館で、
わたしは、心地よい涼しさを体と心にいただきました。
スプリンクラーが水を飛ばす中庭で、小さな虹もみつけました。
ばらのシフォンケーキとコーヒーで、鼻からも口からも癒されました。
ちひろさんの描く、力に満ちたこどもたちの表情に励まされ、
お母さんの胸に抱かれる安心しきったこどもの絵に涙しました。
そして、もうひとつ、紹介したいちひろさんのコメントがあります。
 「子どもをすごくかわいがっている聖母みたいに考えられるんですが、
  そうじゃなくて、もっと体質的なものなんです。
  描くと子どものものを描いちゃう・・・・。
  おかしいんですけど、子どもを描いていると、自分の小さいときのことを
  自分で描いているという感じがします。」
        (「教育評論」1972年11月号掲載の対談より)

思わずメモしたコメントです。
同感!
わたしもこどもが、どうしても気になってしまうのですが、
もちろんそれは、かわいいとか、好きという気持ちに間違いはないのですが、
根本的に、かつてわたしにあったもの、そして、忘れたくないものを
すべてのこどもたちの姿に、追っているように思います。


この心地よい空間にまた来たいな、
そう思いながら、閉館ぎりぎりまでいたのでした。
[ 2012/08/25 17:20 ] わたし | TB(-) | CM(-)


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